【新連載】第1回:星野哲氏に訊く「終活」の課題と展望
「集活」で迷惑をかけあえる人間関係を紡ごう

[2018/4/25 00:00]


「終活」という言葉が2009年に初めてマスコミに登場してから約9年。「終活」に関する調査では、「終活という言葉を知っている」や「今後、終活を行ないたい」とする人は、どの調査でも非常に増えてきています。

しかし、実際に「終活を行なっている」という人は、「生前整理」などの終活の一部を除き、さほど増えていません。

そこで、終活分野に造詣が深い社会学者の星野哲氏に「終活の課題点とこれから」というテーマでお話をうかがいました。

「終活」が近しい人たちを排除している

星野哲氏

現在の「終活」をどのように見ていらっしゃいますか。

終活に関わる取材や研究などをしていると、しょっちゅう耳にする言葉があります。それは、「家族や周囲の人に迷惑をかけたくない。だから終活する」という言葉です。

迷惑をかけたくないというのは、確かに美しい言葉だと思います。終活をすることで遺された人が助かることも確かに少なくありません。でも、終活は迷惑をかけたくないために行なうものと言われると、私は違和感を覚えてしまいます。

というのは、亡くなれば当然、何も出来なくなります。ですから、濃淡はあっても家族や周囲に「迷惑」をかけるのは当たり前だと思うのです。むしろ、「どうやって迷惑をかけあえる関係を紡いでいくか」。それこそが、あるべき終活ではないかと考えているからです。

現在の「終活」は、関係を紡ぐのとは逆の方向に行ってしまっているということですね。

そうです。いま語られている終活とは、市場から商品やサービスを購入することによって、自分の周りの人たちの関与を極力減らす方向、強い言い方をすれば関わる機会を奪う方向に動くことを指していることが多いのです。

それが、自分の殻をどんどん厚くし、高い壁を造って、近しい人たちを排除してしまっているように見受けられます。

その具体例を挙げていただけますか。

例えば、葬儀を家族葬として身内だけで行なったところ、その後、故人と親しかった友人などが「なぜ葬儀に呼んでくれなかったのか。線香をあげさせて欲しい」と、次々に自宅に弔問に訪れるということがあります。友人などにかえって迷惑をかけてしまったし、家族も大変だったということはよく聞く話です。

あるいは、親が「葬儀は何もやらないでいい」と言い残し、子供たちはその通り直葬で済ませた。ところが、後で「これで良かったのか」と忸怩(じくじ)たる思いにかられ、後悔する人も結構多いということも耳にします。最後の親孝行や罪滅ぼし、和解といった機会を失い、時には悲嘆からの回復、いわゆるグリーフワークに支障が出かねないこともあります。

「終活」から「集活」へ

星野さんがおっしゃる現在の終活は、一言でいうと「個人主義的終活」と表現できそうですが、では、それに対して、星野さんはどうあるべきだとお考えですか。

終活を行なう本人と家族や身近な人が生前によく話し合い、信頼関係を構築することの方が必要であり、重要であると考えます。

ですから最近は、講演に呼ばれた時などには、「終活」から「集活(しゅうかつ)」へ、というお話をしています。「集活」というのは、一つは「集まって話をする」、もう一つは「縁を集める」ということです。

そうした「集活」によって、子供たちに「あとはお前たちに任せるよ」とか、友だちに「あとは頼むよ」と言えるような関係性をつくることが、求められているのではないかと思うのです。

そのようにして、むしろ遺される側が共にいわゆる終活を行なうことによって、故人を偲んだり、自分達のグリーフワークに繋げたり、もしくは親孝行や罪滅ぼしなどを行なう機会とすれば良いと私は考えています。

人は関係性の中で生きていると言われますね。

そうです。人は一人で生きているわけでは絶対にありません。それは物理的な意味だけでなく、例えば、子供に対しては親としての自分があり、友人には友人という存在としての自分というものがあります。

関係性の中で「自分」は多面的な顔を持つのです。自分という存在は、必ず誰かとの関係の中にしかありません。

ですから、死は個人のものではなく、周囲の人たちすべてと必ず「何か」を共有するはずのものです。近しい人の死は、自身の一部、その人との関係性の中に存在していた「自分」の死でもあります。

もしも共有されるものがない死があるとしたら、それこそが真の孤独死でしょう。

忘れられやすい死後の事務処理

現在の終活の課題点として、他に感じていらっしゃることは。

終活と言われるものが、ともすると、お墓の購入と葬儀の生前予約に終始してしまっているケースが往々にしてあることです。

しかし、人が亡くなって一番手がかかるのは、それから後の「死後事務」の部分です。埋葬、家の片付け、様々な契約の解除、公共料金の支払い、遺産分割などです。

これらは自分ではできませんから、すべて誰かにやってもらわないとなりません。

その誰かというのは、先ほど言いました「集活」にも関係しますが、本来であれば、家族や信頼関係のある友人などです。そのことを、どこまで意識しているのかなと感じています。

人生の最後の治療についての会話が必要

現在の終活の課題点を、もう一つ挙げていただけますか。

もう一つは、亡くなるまでの終活に関することで、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の問題があります。ACPとは人生の最終段階の医療・ケアについて、本人が家族や医療・ケアチームと事前に繰り返し話し合うプロセスのことです。

ACPは、まだおざなりになっている部分があるのではないかと感じています。

どういうことかと言いますと、人生の最終段階の医療については今、「延命治療なんていらない」とひと言いう人が増えていますが、延命治療のことをどこまで理解して、どこまで本気でそう言っているのかということです。

延命治療という言葉に幅がありすぎるのです。時間と共に意識が変わることだってあります。例えば、「日本尊厳死協会」のリビングウィル(生前の意思表示)の指示書にしても、抽象的な表現ですし、あれで総てを包括しようというのは無理があると思います。

漠然とした言い方や抽象的な表現では、家族や終末期医療に関わる人たちに、逆に悩みを与えかねません。もちろん、何の意思表示もないよりは「拠り所」があるだけでも大きな意味があるとは思いますが‥。

では、どのようにしたら良いのですか。

「私が認知症になって食べられなくなっても、胃ろうはつけないで」とか「延命のための経管栄養は与えないで」といった具体的な指示をしておきたいですね。それには、延命治療といわれるものがどのようなものかを知ることが必要です。

病気によってもどこからが延命なのかは微妙です。医療者はもとより、家族など自分の最期に関わる人たちとじっくり話し合い、その人達の要望も踏まえて、どうするのかを皆で共有する。ありきたりですが、結局はそれしかないと思います。

また、元気なうちに信頼できるホームドクターと判断を委ねられるキーパーソンをつくっておくことです。在宅で最期を迎えることが増えていくので、医師は訪問診療をしてくれるかどうかは重要です。キーパーソンは、家族が無理なら信頼できる友人ですね。

関係性づくりがここでも大切なのです。

家族がいない人の「集活」

現在の終活の課題点を3つ挙げていただきました。それらの課題点を解決していくには、いずれも、「集まって話をする」「縁を集める」という意味の「集活」が必要であるというお話でした。ただ、従来からも一部でそのようなことを言われながらも、なかなか広がっていかないのが現状のように感じます。そこには、簡単にはそうならないネックがあり、そのネックを解消していくことも考えていかなければならないのではないでしょうか。

私もそう思います。何がネックなのか、対象を分けて考えた方が良いと思います。

まず、「家族がいる人」と「家族がいない人」に2つに分けて考えてみます。

いま、家族がいない、いわゆる「おひとりさま」が非常に増えていると言われています。本当にただの一人も家族がいない人がどの程度かは分かりませんが、「おひとりさま」と言われる人たちということでくくりますと、一番頼れるはずの家族がいないことがネックでしょう。でも、意識さえあれば「集活」はできます。

この場合の「集活」の選択肢としては、友人や地域、あるいは民間団体などがあります。地域では社会福祉協議会など、民間では「りすシステム」のようなNPO法人です。同じ永代供養墓に入る人たち同士が生前から集い、交流する「墓友(はかとも)」などもそうです。

いわゆる「おひとりさま」は、これらを有効に活用することを考えた方が良いと思います。

家族と断絶している人の「集活」

「家族がいる人」の「集活」のネックになっているのは何でしょうか。

「家族がいる人」は2つのケースに分けて考えた方が良いでしょう。

一つは、家族との関係が断絶してしまっている場合です。ちょっと極端ですが、分かりやすい例をあげると、ホームレスの人たちです。

家族にお金などで迷惑をかけてしまい、家族から縁を切られた、あるいは家族に会わす顔が無いと考え、自ら縁を切ってしまった人たちがホームレスには少なくないといわれます。

こうした場合の「集活」の対象は、家族ではなく、その地域で暮らしている人たちです。ところが、自分は社会からはみ出してしまったという意識を持っているため、地域で彼らをサポートしてくれる人達がいるということをなかなか認識できない場合が多いのです。これがネックです。

このネックを解消していくには、周囲からの働きかけが不可欠です。社会の側が決して見捨てていないことを感じてもらう。社会的包摂(ほうせつ)です。

具体的な方法はケースごとにそれぞれでしょうが、例えば東京の山谷地区で活動するNPO法人「山友会」では、ホームレスの人向けに食事や住む場所、医療の提供といった活動に加え、死後に一緒に入れる合同墓を造って皆で供養もしています。こうした活動を通じて、生前から関係性を紡いでいます。

家族との関係性を見つめ直すための「集活」

「家族がいる人」の、もう一つの「集活」のネックは何でしょうか。

終活をする時に、家族には話も相談もせず、全部自分で決めないと気が済まないケースです。そういう人たちには、自分で総て決めてきたという自負心があります。ですから、自分が亡くなることについても、総て自分で決めたい、あるいは今さら家族に相談して決められない、といったことがあるのだと思います。

また、死の話題をタブー視する意識が家族の側にもあることが少なくないでしょう。そうなると、やはり自分で決めるしかない、となってしまいます。

結局は家族とどれだけ会話して、いろいろなことを共有しているかという、日ごろからの関係性に行き着きます。

先ほど申しました通り、人は一人では生きていません。だからこそ、死を一つの機縁として関係性を見つめなおすことができるはずだし、したほうがよいと考えます。

それが死の不安に立ち向かう支えにもなりうるだろうし、「いま」を充実させることにもつながるでしょう。

多死時代を迎え、国は地域包括ケアシステムの構築とともに在宅での看取りを推進しています。病床が足りないのです。これからは否応なく、多くの人たちが看取りのことを考えざるをえません。家族の中で死を話題にせざるをえない状況が生まれています。

これを「やむなく」ととらえるのではなく、積極的に話をする機会、関係性を紡ぎなおす好機ととらえる。終活に関心を持ったのなら、ぜひそのことを意識してほしいと思っています。

本日は、どうもありがとうございました。


【星野哲氏のプロフィール】立教大学社会デザイン研究所研究員、立教大学21世紀社会デザイン研究科兼任講師、東京墨田看護専門学校非常勤講師、ライター。1986年、朝日新聞社に記者として入社し、学芸部や社会部、CSR推進部などを経て2016年退社。記者時代に墓や葬儀の変化を通してみえる家族や社会の変化に興味を抱き、取材・研究活動を続ける。終活関連分野全般、特に人生のエンディング段階を社会でどう支えるかに関心がある。2017年には在宅看取りをサポートする、一般社団法人「介護デザインラボ」を立ち上げ、理事として活動を始める。最新刊著書「遺贈寄付 最期のお金の活かし方」(幻冬舎)。

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塚本 優(つかもと まさる)
葬送ジャーナリスト。1975年早稲田大学法学部卒業。時事通信社などを経て2007年、葬祭(葬儀、お墓、寺院など)を事業領域とした鎌倉新書に入社。葬祭事業者向け月刊誌の編集長を務める。また、新規事業開発室長として、介護、相続、葬儀など高齢者が直面する諸課題について、各種事業者や専門家との連携などを通じてトータルで解決していく終活団体を立ち上げる。2013年、フリーの葬送ジャーナリストとして独立。葬祭・終活・シニア関連などの専門情報紙を中心に寄稿し、活躍している。

[塚本優]