第3回:一条真也氏が提唱する「修活」論
“死を乗り越える死生観"を持つことが一番重要

[2018/6/11 00:00]


「一条真也(いちじょう しんや)」とは、大手冠婚葬祭互助会・サンレーの佐久間庸和(さくま つねかず)社長のペンネームです。

経営者として多忙な日々を過ごす傍ら、一条真也のペンネームで著書90冊以上を上梓するなど作家や上智大学客員教授としても精力的に活動なさっています。

一条氏は、「終活」ではなく「修活」を提唱されています。

なぜ「修活」なのか。また、「修活」で重要なのはどういう活動なのかについて、お話をうかがいました。

一条真也氏

「終末」活動ではなく「人生を修める」活動を

現在の終活をどのように見ていらっしゃいますか。

いま、世の中には「終活ブーム」の強い風が吹いています。多くの高齢者が、生前から葬儀やお墓の準備をしています。「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムが花盛りで、私にもよく声がかかり、何度も講演をさせていただいています。

一方で、「終活」という言葉に違和感を抱いている方も多いようです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いしました。

「終活」という言葉は、もともとは就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。

私も「終末」という言葉には、違和感を覚えます。なぜなら、「老い」の時間をどう豊かに過ごすかこそ、本来の終活であると思うからです。

そこで私は、「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しています。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。

考えてみれば、「就活」も「婚活」も、広い意味での「修活」ではないかと思います。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活だからです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。

かつての日本人は、「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」ということを強く意識していました。自分から前向きに、積極的に修めることにより人格を高め、人間として成長することを目指したのです。

「終活」という言葉には、死を間近にした人が、仕方なく死の準備をしてこの世から去っていくというニュアンスがあり、それではあまりに寂しすぎます。

ですから私は、人生の最期まで「修生活動」をして人間として成長し、人生を堂々と卒業していくのが良いと考え、「修活」という言葉を提案しています。

「迷惑をかけたくない」という言葉が問題

現在の終活の問題・課題点として感じていらっしゃることをお聞かせ下さい。

今の終活で私が一番おかしいと思っているのは、「迷惑をかけたくない」という言葉です。流行語にもなった「無縁社会」のキーワードも、「迷惑」という言葉ではないかと思います。

「遺された子供に迷惑をかけたくないから、葬儀は簡素でいい」

「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくてもいい」

「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」

などと、家族や隣人、友人に迷惑をかけたくないという言葉が日本中に広がることによって、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。

最近では、迷惑をかけたくないと言って、自殺する人も、孤独死する人も増えてきています。

ひと言、助けて欲しいとSOSを出せばいいのに、迷惑はかけられないということでSOSが出ません。しかし、家族や親戚にすれば、自殺や孤独死をされるほうが、よほど迷惑ではないでしょうか。

親が亡くなっても、皆さんに知らせないということにしても、親は家族だけの所有物ではありません。学生生活や仕事などを通じて、いろいろな仲間や友人などと人生を過ごしてきたのに、この世を去る時に誰にも知らせないというのは、極めておかしなことだと私は思います。

いずれにしても、いま流行っている終活というのは、「迷惑をかけたくない」ということを「錦の御旗」のようにして、葬儀を簡素にしたり、お墓をつくらなかったり、人と人のつながりをどんどん絶っていく方向にあるので、私は好ましくないと思っています。

「迷惑をかけたくない」という言葉が「錦の御旗」にできるようになってきたのは、どうしてだとお考えですか。

「迷惑をかけたくない」という言葉は、実は口実にすぎないと私は考えています。

迷惑をかけたくないと言うと、聴こえは非常に良いわけです。人様のことを思って、自分は我慢しているようなイメージがあるのでそう言っていますが、本音は「迷惑」ではなく「面倒」だという人が多いと思います。

葬儀に皆さんに来ていただいて、接待したり、返礼したりするのは面倒だ。結婚式に皆さんに来ていただいて、ちゃんとした披露宴をするのは面倒だ。すべてにおいて、人をもてなすのは面倒だという本音を、迷惑をかけたくないという美名のもとに隠しているのです。

そもそも、家族や親しい友人とは、お互いに迷惑をかけあうものではないでしょうか。子供が親の葬儀を挙げ、子孫が先祖のお墓を守る。これは当たり前のことであって、どこが迷惑なのでしょうか。逆に言えば、葬儀を挙げたり、お墓を守ったりすることによって、家族や親族、友人などとの絆が強くなっていくのだと思います。

迷惑をかけることで絆が強くなるということでは、阪神・淡路大震災や東日本大震災という未曽有の事態を体験した人は、家族や地域の結びつきが強くなっています。

筋力トレーニングなどでも楽なメニューでは無理です。いつもよりハードなメニューで負荷を与えられ、ストレスを与えられることによって強靭な筋力がつきます。

それと同じで、大変な経験をし、一種の負荷を与えられることによって、家族や親族、友人などとの絆は強くなっていくのです。

「読書」で死の不安を乗り越える

冒頭で、「終活」ではなく「修活」であるべきとおっしゃいましたが、「修活」としては何が重要だとお考えですか。

一番重要なのは、死生観を持つことだと思います。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。

一般の人が、そのような死生観を持てるようにするには、どのようにしたらよいでしょうか。

私がお勧めしているのは、読書と映画鑑賞です。

まず読書ですが、私は『死が怖くなくなる読書』(現代書林)という本を上梓しました。自分が死ぬことの「おそれ」と、自分が愛する人が亡くなったときの「悲しみ」が少しずつ溶けて、最後には消えてゆくような本を選んだブックガイドです。

人間は、例えば、ガンで余命1年との告知を受けたとすると、「世界でこんなに悲惨な目にあっているのは自分しかいない」とか、「なぜ自分だけが不幸な目にあうのだ」などと考えがちです。

しかし、本を読めば、この地上には、自分と同じガンで亡くなった人がたくさんいることや、自分より余命が短かった人がいることも知ります。これまでは、自分こそがこの世における最大の悲劇の主人公と考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟ることができます。

また、死を前にして、どのように生きたのかを書いた本もたくさんあります。

例えば、正岡子規は、壮絶な闘病生活を送った末に亡くなりました。彼の『病床六尺』などを読むと、自分は社会人として生きてきて、子供も孫もいて、それでこの世を卒業していけるなら、良い方だなとか、ましな方だなと、自分を客観的に見られる視点も得られます。

さらに、仏教でも、キリスト教などでも良いですが、宗教の本を読むことによって、死に向かっての覚悟や心構えなどが得られます。

何もインプットせずに、自分一人の考えで死のことをあれこれ考えても、必ず悪い方向に行ってしまいます。ですから、死の不安を乗り越えるには、死と向き合った過去の先輩たちの言葉に触れることが良いと思います。

「映画」で死の不安を乗り越える

映画鑑賞ということについてご説明ください。

私は、『死が怖くなくなる読書』の続編として、『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)という本を上梓しました。

長い人類の歴史の中で、死ななかった人間はいませんし、愛する人を亡くした人間も無数にいます。

その歴然とした事実を教えてくれる映画、「死」があるから「生」があるという真理に気づかせてくれる映画、死者の視点で発想するヒントを与えてくれる映画などを集めました。

私は、映画をはじめとする動画撮影技術が生まれた根源には、人間の「不死への憧れ」があると思っています。映画と写真を比較しますと、写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、「時間を殺す芸術」と呼ばれます。

一方、動画は、かけがえのない時間をそのまま「保存」するので「時間をいけどりにする芸術」です。そのことは、わが子の運動会などの様子をビデオカメラで必死に撮影する親たちの姿を見ても良く分かります。

「時間を保存する」ということは、「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。

写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画がつくられてきたのだと思います。

映画で今まで一番多くつくられたのは、「時間を超越する」映画だそうです。時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在しない死者に会うという目的があるのではないでしょうか。

私は、『唯葬論』(サンガ文庫)という本で詳細に書いたのですが、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。

一条真也氏の著書書影

そして、映画とは「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思います。映画を観れば、私が大好きなヴィヴィアン・リーやオードリー・へプバーン、グレース・ケリーや、三船敏郎、高倉健にも、いつでも好きなときに会えますから。

同様のことは、読書にも言えそうですね。

そうです。私は芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫などが好きなのですが、既に亡くなっている作家ばかりです。古典というのは、それを書いた人は総て亡くなっている人です。

亡くなった人の言葉に触れるというのは、死者と交流しているわけです。読書は交霊術と言っても良いと思うのです。

そして、読書でこの世にいない死者の言葉に触れたり、映画で死者の姿を見るということは、自分もいつかあちらの世界に行くのだということを、自然と受け入れていく力があると思います。

映画を観ると、死の不安を乗り越えられるというのは、特にどういうところでしょうか。

私は映画が好きで良く観るのですが、なるべく映画館で観るようにしています。映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなる感覚を覚えます。それはどうしてなのか考えてみたのですが、映画館で映画を観るというのは、実は臨死体験であるということを発見しました。

どういうことかと言いますと、映画館では、私たちは闇の中からスクリーンに映し出された光を見ています。

闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。

闇から光を見るというのは、死者が生者の世界をのぞき見るという行為と同じなのです。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験と言うか、死を疑似体験するのです。

ですから、映画をたくさん観て、死の不安を乗り越えていただきたいと思います。

自分の理想の葬儀をイメージする

死の不安を乗り越えるのに良い方法として、読書、映画以外ではいかがでしょうか。

自分の理想の葬儀を、具体的にイメージすることも、とても効果的だと思います。

そのイメージが、これからの人生をいきいきと幸せに生きていくためのフィードバックになるからです。

自分の理想の葬儀を具体的にイメージするとは、例えば、参列してくれる人たちの顔ぶれを想像してみます。

そして、皆が「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれる。配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」と言われ、子供たちからは「お父さん(お母さん)の子で良かった」などと言われることを想像するのです。

あるいは、友人や会社の同僚などが弔辞を読む場面を想像してみます。そして、そこには、あなたがどのように世のため、人のために生きてきたかが克明に述べられていることを想像してみるのです。

自分の理想の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものです。

そして、こうした葬儀のイメージを現実のものにするには、残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないのです。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックです。

よく言われる「死をみつめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。自分の葬儀を考えることで人は死を考え、生の大切さを思えるのです。

「死」はけっして不幸な出来事ではない

死の不安を乗り越える死生観を持つこと以外で、特に大切だと考えられていることをお聞かせ下さい。

日本では、人が亡くなった時に「不幸があった」とか「ご不幸」などと呼びます。

私たちは皆、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、私たちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」ならば、どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きていても、最後は不幸になるのなら、最初から負け戦に出ていくようなものです。

亡くなった人はすべて「負け組」で、生き残った人は「勝ち組」なのでしょうか。そんな馬鹿な話はありません。

世界では、キリストでも、イスラムでも、上座仏教の国でも、死や葬儀は、悲しいことではあっても、不幸とは呼びません。

私も「不幸」とは絶対に呼ばないようにしています。そう言った瞬間、私は将来必ず不幸になってしまうと思うからです。死を不幸と呼んでいるうちは、人は絶対に幸せにはなれません。

では、どう呼べば良いのかというと、私は、死は「人生を卒業する」、そして葬儀は「人生の卒業式」と呼んでいます。

終活においても、「不幸」という言葉は、絶対に使わないようにしていただきたいと思います。

本日は、ご多忙のところをありがとうございました。


【一条真也氏のプロフィール】

本名・佐久間庸和。作家、(株)サンレー代表取締役社長、上智大学グリーフケア研究所客員教授。

東急エージェンシー時代に「一条真也」のペンネームで処女作『ハートフルに遊ぶ』を発表。その後、さまざまなテーマの著書を上梓する。

2001年には大手冠婚葬祭互助会(株)サンレーの社長に就任し、数々のイノベーションを行なう。血縁、地縁などの「縁」を取り戻すことを「冠婚葬祭業のインフラ整備」と位置づけ、無縁社会の具体的解決策を模索、行動しつづけている。「隣人祭り」や「グリーフケア」をはじめ、社業を通じて「無縁社会」を乗り越えて「有縁社会」の再生をめざす。

「天下布礼」の旗を掲げ、人間尊重思想を広めるべく作家活動、大学客員教授として教育活動にも情熱を注ぐ。2012年2月、孔子および『論語』の精神の普及に貢献した人物に贈与される「孔子文化賞(第2回)」を稲盛和夫氏(稲盛文化財団理事長)と同時受賞。

著書は、『儀式論』『唯葬論』『永遠葬』『決定版 冠婚葬祭入門』『決定版 年中行事入門』『慈経 自由訳』『般若心経 自由訳』『永遠の知的生活』など90冊以上。「修活」関連著書として、『決定版 終活入門』『死ぬまでにやっておきたい50のこと』『人生の修活ノート』『人生の修め方』『人生の四季を愛でる』などがある。

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塚本 優(つかもと まさる)
葬送ジャーナリスト。1975年早稲田大学法学部卒業。時事通信社などを経て2007年、葬祭(葬儀、お墓、寺院など)を事業領域とした鎌倉新書に入社。葬祭事業者向け月刊誌の編集長を務める。また、新規事業開発室長として、介護、相続、葬儀など高齢者が直面する諸課題について、各種事業者や専門家との連携などを通じてトータルで解決していく終活団体を立ち上げる。2013年、フリーの葬送ジャーナリストとして独立。葬祭・終活・シニア関連などの専門情報紙を中心に寄稿し、活躍している。

[塚本優]