第15回:山田博泰氏に訊く終活と「成功の秘訣」
成功の秘訣などない。ただ一生懸命に行動してきただけ
2009年に終活という言葉が登場してから、約10年が経ちます。当初、お寺は終活に批判・否定的なところが多かったのが、最近では終活普及に積極的に取り組むところも増えています。
その要因の一つは、お寺の経済的な基盤である檀家が減少してきていることへの対応策として、終活ブームを活用して新しい檀信徒を獲得しようとしているところにあります。
しかし、依然、終活という言葉を掲げないお寺も少なくなく、泰心山 西栄寺もその一つです。
同寺は、単立寺院(上位団体には属さない宗教法人)でありながら、関西と東京都に7つの寺院と3つの布教所を構える大寺院です。
一代で、ここまで築きあげた山田博泰住職に、終活の考え方と「成功の秘訣」についてお訊きしました。
終活は、生きるためのものであるべき
終活はかなり広がりをみせてきていますが、ご住職は、終活をどのように考えていらっしゃいますか。
今、世の中で言われている終活というのは、死を直視しようということですよね。
それも必要なのでしょうし、私も坊さんとして当然のこととして人の死にも長年にわたって関わらせていただいてきておりますが、終活は死を直視することというのはちょっと違うのではないかと思います。
というのは、終活というのは、死ぬためではなく、生きるためのものであるべきではないかと考えるからです。
私ももう79歳ですし、あと何年先のことか分かりませんが、ロウソクの火がふっと消える、その刹那まで真剣に生きていくことが大事だと思うのです。
なぜ真剣に生きていくのかと言いますと、人間は皆、それぞれに与えられた仕事、役割を持っているはずだからです。
この仕事、役割というのは、生産性のあるものばかりではなく、生産性のないものもあります。例えば、我われ後期高齢者が生産性を求めるのは難しい。しかし、精神的なものは求められますし、社会貢献もできます。社会貢献といっても、大きなことではなくても、挨拶ひとつでも、元気を与えることができるのです。
年をとっても、そうしたものを求めて、本当に前向きに生きていく。それが生きる力になるのだと思うのです。
終活、終活と言いますが、率直に言いますと、死んでしまったらどうでもいいのです。人間は、簡単には死なないから死ぬのに困るのです。
ですから、ロウソクの火が消える刹那まで、真剣に生きていくことが大事であり、これがあるべき終活でしょう。
79歳でいらっしゃるのですか。お年よりもかなりお若く見えます。
よく言われます。そう見えるとしたら、自画自賛になってしまいますが、真剣に生きているからではないでしょうか。
俗な言い方をすれば、それも男の色気だと思います。身体がたくましく、筋肉隆々であることだけが男の色気ではありません。70歳、80歳、90歳になっても、前向きにいきいきと生きていれば、男の色気ってあると思うのです。当然、女も一緒です。
ですから、男も女も色気を持ち続けられるように、積極的に生きていくことがあるべき終活だと思うのです。
寄付をしてくださいとは言わない
お寺でも、終活という言葉を掲げるところが増えてきています。ご住職のところは、そういう言葉を掲げなくても人々が集まり、成功されているお寺だと思うのですが、成功の秘訣は何でしょうか。
いえいえ、世の中が変化して西栄寺も最近はちょっとしぼんできましたが、以前はマスコミの方がよく来られて、同じような質問をされました。
でも、成功の秘訣なんてありません。私は頭が悪いし、理論的なことはまったく分りませんしね。ただ、その時、その場で一生懸命に行なってきただけです。
人間、一生懸命に行なっていれば、お金は自然とついてきます。逆に、お金は追いかければ追いかけるほど逃げていきます。
ですから、私は、こちらから寄付をしてくださいとは絶対に言いません。
なぜなら、気持ちがあっても、寄付をする経済的な余裕はないという人もたくさんいらっしゃるからです。私は、そんな人たちにも、肩身の狭い思いをすることなく、お寺にきていただきたいのです。
もちろん、お布施の額も問いません。家庭の経済状況から、葬儀にお金をかけられないという人もいらっしゃいますが、そんな方からの依頼もお受けしてきました。
中には、「寄付を言わないから来た」「お布施がかからないから来た」という方もいます。私は、それでもいいと思っています。
どんな人でも、どんな理由でもいいから、まずは気軽に来ていただける場所でありたい。お寺とは本来、そういう場所であるべきだというのが私の信念です。
その時、その場で一生懸命に行なうというのは、何を一生懸命に行なうのでしょうか。
人と接し、人の心を大切にすることです。悩みを抱えている人、困っている人、弱い立場の人などのふところに飛び込み、一緒に考え、悩み、涙し、笑える関係をつくることに一生懸命に努力しています。
そうして心と心が触れ合って人間関係ができれば、関係が出来た人がまた次の人に関係を広げてくれます。
いま、こちらで市議会議員の選挙を行なっていますが、選挙のときだけ「お願いします」「お願いします」と叫んでも、誰が投票してくれるものですか。日頃の生活の中で密接に接するからこそ、何かの時に助けてくれるのです。
私も、ここ(大阪本坊)に来てから12年になりますが、来た時には、地域の人たちは排他的でしたし、西栄寺とは対峙しなければいけないとはっきり言われたこともあります。
でも、地域のひとり一人と接し、ふところに飛び込んでいくことにより、自然に交われるようになり、その後は悪口を言う人もあまりいなくなりました。しかし、まだまだですが…。
寄付はお願いしないということですが、お寺は、一般的には檀家や信徒によって支えられています。そういう意味では、どのようにお考えなのでしょうか。
檀家さんというのは、先祖代々に渡ってお寺を支えてくださった信徒さんだとしますと、私どもは新しいお寺ですから、そういう意味では、檀家さんはおらず、全員が信徒さんです。
でも私は、このお寺を支えて下さる方々は、全て檀家さんだと思っています。
西栄寺では、毎日、イベントを何か行なっています。月1回の「こころ塾」、お見合いパーティーやツアーの開催、子供向けの塾や空手教室、囲碁クラブやチアリーディングなどの趣味の会など、何でもありです。
冒頭でおっしゃられた、前向きにいきいき生きていくための場を、地域の皆さんに提供されているわけですね。
そうです。お寺が「そんなしょうもないことして」と批判を受けることもあります。でも、言いたい人には言わせておけばいいと思っています。私たちの活動で「癒された」「人生が楽しくなった」「幸せになった」という方が、たくさんいらっしゃるのですから。
それで、趣味の会など、檀家さんではない人たちが西栄寺を使う時も、場所を無料で提供しています。
「場所代は出します」という人もいますが、私は、「いや、いりません。そのかわり、何かの時には支えてくださいね」と言っています。例えば、法要などの時に、檀家さんを接待するのをちょっとお手伝いしてくださることだって、西栄寺を支えてくださることになります。
私は、イベントを行なってくれる皆さんにも言っているのですが、いろいろなイベントを行なっているから西栄寺は賑やかで活気があると思われ、それで人も集まってくるのであり、皆さんのおかげなのです。
行動原則は「ハイ・ニコ・ポン」
今までのお話をお聞きしただけでも、ご住職は、他の宗教者とは違われているなと思いました。他の宗教者をどのように見ていらっしゃいますか。
宗教者もそれぞれですから、それぞれが思うように行えば良いと思いますが、私から見た宗教者というのは、上からものを言う人が多いですね。
そのようにして布施や寄付をもらおうということなのでしょうが、上からものを言っていて誰がついてくるものですか。自分も一緒になってどぶ板の上を歩き、泥水を飲まなければ人はついてきませんよ。
言葉は悪いですが、自分は衣を汚さず、ふんぞりかえって説教をたれているのが宗教者の悪いところだと思います。ふんぞりかえっていたら潰れるだけですよ。
確かに、中には一声かければ人が集まってくる宗教家もいます。例えば、私が尊敬している瀬戸内寂聴さんなどはそうです。
そういう人たちは、もちろん努力もあるでしょうが、持って生まれた素質とか天分を持たれていると思うのです。ですから、なかなかそうはなれません。
私は、そうなれるわけはありませんので、だからこそ、一緒にどぶ板の上を歩き、泥水も飲むのです。
そうはおっしゃっても、人は成功し始めると偉そうになり、どぶ板の上を歩き、泥水を飲み続けることは難しいことだと思います。ご住職は、なぜそれを続けてこられたのでしょうか。お聞きしていると、ご住職は、困っている人を助けたいというお気持ちが強いのかと思ったのですが、いかがでしょうか。
いや、助けてやろうなどと思っている人には、ろくな人はいません。助けられるわけないのです。
ですから、助けてあげないといけない、助けてあげようと思った時点で、既に上から目線になってしまっています。
結果的に、助けたことになる人もいるかもしれません。でもそれは、助けてやるのではなく、チャンスがあってそうなっただけのことだと思うのです。
そうしたチャンスが訪れるかどうかは、やはり一生懸命に行なうかどうかです。
私は、若い頃から「ハイ・ニコ・ポン」ということを行動原則にしてきました。誰かに「こうしてください」と頼まれると、「ハイ」と返事をして「ニコ」と応えます。そして、すぐさま「ポン」と立ち上がって行動に移すのです。
だから、仕事が増えてきたと思うのです。仕事が増えてきても、「ハイ・ニコ・ポン」と行動して、断りません。
例えば、最近は少なくなりましたが、枕経は夜中でも行かなければなりません。頼まれれば、夜中であれ朝早くであれ、文句は絶対に言いません。「これから、すぐにおうかがいします」と答えて、飛んで行きます。
その姿勢が多くの人から共感されて、仕事がどんどん増えていって、寝るひまもなくなりました。
それを、夜中だからと断って寝てしまう人が多い。そういう点では、私は他人以上のことをしなければいけないと思って働いてきました。
お坊主さんらしい伽藍を建てることを目標に
夜中でも寝ないで働くほどご住職をつき動かしたものは、何なのでしょうか。夢や目標があったからでしょうか。
やはり、坊主として、坊主らしい伽藍を建てたいという強い気持ちがありました。
そういう強い気持ちを持つようになった体験が2つあります。
一つは、養子の体験です。
私は、高校卒業後、貿易代行商社に就職しました。当時の私は、特に夢や目標もなく、漫然と過ごしていました。
そんなある日、在家出身の独立した僧侶であった父親から、思いがけず「お前、お寺に養子に行かないか」と声をかけられのです。
職業として僧侶を意識したのは、この時が初めてでしたが、素直に「それはいいかもしれない」と思いました。
私にとって父は厳しく怖い存在でしたが、尊敬していましたし、好きでした。父の仕事である僧侶というものに、自分でも気づかないうちに憧れの気持ちを持っていたのだと思います。
私は僧侶になり、養子に行くことを決めました。
僧侶になるためには資格が必要ですね。
そうです。私は、貿易代行会社を退職し、京都にある浄土真宗本願寺派の中央佛教学院に入学し、2年間、京都で寮生活を送りながら仏の道を歩み始めました。
ところが、時を同じくして父が病にかかり、還浄土(亡くなった人が浄土に帰ること)してしまいました。
父の還浄土がきっかけのひとつとなって、お寺に養子に行く話は白紙になりました。かといって、父の寺を継ぐという話にもなりませんでした。家族で話し合いの結果、高等学校の教師をしている長兄が継ぐことになったのです。
しかし、私の中で仏道を極めたいという思いはさらに大きくなり、アルバイトで学費を稼ぎながら中央佛教学院の研究科、さらには龍谷大学へと進みました。
大学卒業後は、大阪府の職員採用試験に合格し、小学校に奉職しました。忙しい日々を過ごしながらも、まさに青春を謳歌していました。
しかし1年後に、大きな転機がやってきました。
中央佛教学院時代からつきあっていた女性との縁談が、あれよあれよという間にまとまったのです。しかも、彼女の実家であるお寺に養子として入るという条件でした。
養子の話が一旦白紙になった後に、また別の養子の話がきたわけですね。
そうです。あまりに意外な展開でしたが、私はこれも運命と受け入れました。25歳の時です。
ところが、九州に行った私を待ち受けていたのは、思いもよらぬ試練でした。家族から、養子はあくまで養子でヨソモノという冷たい目でみられ、心まで冷え冷えと寂しくなることが何度もありました。
これも耐えるべき試練、辛抱するのがお寺に養子にきた者の務めと考え、お寺ではじっと息を詰め、義父母の言いなりに勤めを果たしました。
その分、地域活動に精を出し、地元の人たちの信頼を集めるようになり、私を頼ってくださる檀家さんも増えていきました。
しかし、これが義父母には面白くない。私が地域に溶け込むのと反比例するかのように、確執は深くなって行きました。
それでも何とか家族崩壊は避けたかったのですが、ついには妻との亀裂も決定的になり、私は我慢の限界がきて家を出ました。九州に行って、12年あまりの月日が経った頃です。
私は、この体験が悔しくて、そのお寺を絶対に見返してやろうと思いました。そう思うのは、人間的ないやらしさですが、そう思ったから頑張ってこられたことも確かです。
「お坊さんらしい伽藍を建てたい」と思われた、もう1つの体験は何でしょうか。
39歳で九州から大阪に戻った私は、兵庫県尼崎市園田にあるお寺の役僧として勤めさせていただきました。
勤務先のお寺で身を粉にして働きながらも、いつか自分のお寺をつくるために、ガリ版での新聞をつくり、最後に私の住んでいる園田の長屋の連絡先を書いて、勤めているお寺の区域は避け、川をひとつ渡った大阪市西淀川区で配りました。
2号、3号と回を重ねてうちに、だんだんと手応えがあらわれはじめ、4年が過ぎた頃には、百軒近い檀信徒さんが私を頼ってくださるようになりました。
こうして自分の檀信徒さんのほうの仕事が忙しくなってきた私は、勤めていたお寺を辞め、自分自身のお寺へ向けた活動を本格的に始めることにしました。
園田から一キロほど離れた尼崎市下坂部に移り住み、それから法善寺へと居を移し、僧侶として活動を広げていきました。
お陰さまで、その間にも檀信徒さんは増えつづけました。
急速に檀信徒さんが増えたわけですね。
そころが、ある日、次のようなことがあったのです。
お葬式が済み、49日が済んだら、次は月命日につなげていくのが檀信徒さんを増やしていく基本です。
ですから、あるおばあちゃんに、「月命日にも寄せてもらってもいいですかね」とお聞きすると、「山田さんは、葬儀が終わった後も毎週毎週来てくれ、本当に良い人だと思っているけれど、月命日はいいです」と言われました。
「えっ、どうしてですか。私を育てると思って教えてください」と尋ねたところ、「あんたにはお寺が無いからや」とはっきり言われたのです。
この言葉が悔しくて、悔しくて、私は、「やはり坊主はお寺を持たないと駄目なのだ」と思って燃えました。もう一人にも、同じことを言われ、本当に夜も寝ていられないほどに一生懸命に働きました。
そして、それから10年後に尼崎市に初めてお寺を建てることができました。
単立寺院であったことも発展した要因
単立寺院でありながら、ここまで大きくされたことも凄いことだと思います。単立になられたのはどうしてでしょうか。
檀家さんが増え、拠点数を増やすに連れ、私たちを快く思わない同宗派のお寺も増えてきました。
私たちの布教のやり方には、多少型破りのところがあったかもしれません。しかし、私たちが常に最も大切にしなければならないのは檀家さんです。
各お寺がそれぞれに出来ることに積極的に取り組み、檀家さんや地域とよりよい関係を築いていくことがお寺の個性になるのであって、同宗のお寺が横並びになる必要はありません。
そして、最終的にお寺を選ぶのは檀家さんです。私は、この考えに自信を持っていました。
しかし、同宗の中には、私たちの活動に批判的な評価を下す人も少なくありませんでした。
結局、醜いもめごとから逃れるためには、宗派から抜けて、単立となるしかありませんでした。13年ほど前のことです。
その後は、どのようなスタンスをとられてきたのでしょうか。
西本願寺派の僧侶として得度し、学校も西本願寺系を出ていますから、西本願寺派に入れてもらおうと何度もお願いをしてきました。しかし、入れてはくれませんでした。
私は、その都度、西栄寺を今よりももっともっと大きく、誰にも負けないお寺にしようと決意し、頑張ってきました。
そして、10年前には兵庫県から大阪に進出し、750坪の土地に、すべて木造の七間四面の大きな本坊を構えました。これも、負けてなるものかとの思いがあったからです。
現在は、関西のみならず、関東方面にも別院を建立し布教にいそしんでおります。
ここに至るまで様々なことがございましたが、今では単立であったことも西栄寺が伸びた大きな要因の一つであり、意を決して単立になって良かったと思っています。
最後に、今後についてお聞かせ下さい。
私も年を取りました。熱意だけはあるつもりですが、肉体的には衰えてきていますから、西栄寺の後継者について考えなければいけません。
後継者を決めるに当たって一番大事なことは、西栄寺の理念を継いでいってくれる人を後継者にすることです。
再婚した妻には子供が3人おり、長男が僧侶として西栄寺に勤めてくれているのですが、私の感覚に近く、西栄寺の理念を良く理解してくれています。
幸い、その息子が後を継いでくれると言ってくれましたので、後継者は決まっております。今後は、彼を中心にして、西栄寺を盛り上げていってくれるように願っております。
本日は、ぶしつけな質問に対しましても、ご丁寧にお答えいただきありがとうございました。
【山田博泰(やまだ ひろやす)氏のプロフィール】
浄土真宗 単立 泰心山西栄寺 住職。
昭和15年大阪にて生まれる。
幼き頃より父の後ろ姿に尊敬の念を抱き、中央仏教学院・龍谷大学卒業後、大阪府の学校職員を拝命する。その後、ご縁があって九州の某真宗寺院に入寺するも、再び関西に戻り布教活動を始める。
- 昭和55年尼崎市園田の長屋にて西栄寺として活動開始。
- 平成元年に尼崎に西栄寺尼崎本坊を建立。
- 平成10年堺支坊を建立。
- 平成18年大本山大阪本坊を建立。
- 平成21年西宮支坊を建立。
- 平成26年東京別院を建立。
- 平成30年西成支坊を建立。
- そのほか、泉南、岸和田、寝屋川にも布教所を設置
時代に対応しつつも、人の心のふれあいを大切にするお寺として、「はい!にこ!ぽん!」の旗印のもと僧侶一丸となって法務にあたっている。
主な著書として、「曲り道の人生」「こころのお寺~やんちゃ住職が行く~」「死ぬまで生きたれ!」などがある。
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塚本 優(つかもと まさる)
葬送ジャーナリスト。1975年早稲田大学法学部卒業。時事通信社などを経て2007年、葬祭(葬儀、お墓、寺院など)を事業領域とした鎌倉新書に入社。葬祭事業者向け月刊誌の編集長を務める。また、新規事業開発室長として、介護、相続、葬儀など高齢者が直面する諸課題について、各種事業者や専門家との連携などを通じてトータルで解決していく終活団体を立ち上げる。2013年、フリーの葬送ジャーナリストとして独立。葬祭・終活・シニア関連などの専門情報紙を中心に寄稿し、活躍している。