第47回:「ソナエ」赤堀正卓編集長に聞く終活の現状と今後終活には商業主義が触れてはいけない領域がある
「終活」という言葉は、2010年の「ユーキャン新語・流行語大賞」にノミーネートされたことをきっかけに、世間一般に知られるようになり、人々の関心が高まるようになりました。
その3年後の2013年に、日本初の終活専門期刊誌「ソナエ」が創刊されました。
赤堀正卓(あかほり まさたか)氏は、ソナエ立ち上げから現在まで、編集長・部長として、終活分野を見続けられています。
編集・記者というのは、対象領域を客観的、俯瞰(ふかん)的に見られる職種でもあります。
終活分野を長年見続けられているので詳しいというだけではなく、最も客観的、俯瞰的に捉えられている方でもあるのです。
そこで、赤堀正卓氏に「終活の現状と今後」についてお聞きしました。
終活のマーケットはさほど拡大していない
まず「終活の現状」についてお聞きします。終活は、広がってきているのか、さほど広がっていないのかといった意味で、現状をどのように見ていらっしゃいますか。
終活を、自分の死を自分で考えなければならない人たちが行なう活動としてとらえますと、終活を必要とする人たちは間違いなく増えてきています。
その要因の1つは、「人口構造の変化」です。
一人暮らしの高齢者が増えてきており、今後も生涯未婚率の上昇や、配偶者との死別後も少子化のために子どもに頼ることは出来ない人たちなど、一人暮らし高齢者はさらに増加すると予測されています。
要因のもう1つは、「価値観の変化」です。
価値観の変化の1つは、自分で自分の死を考えることがタブーではなくなってきたことです。タブーでなくなってきたのは、阪神淡路大震災や東日本大震災などの震災も影響しているのかもしれません。
価値観の変化の2つ目は、「子供や親族など周りの人の世話になりたくない」、「自分の死は自分で完結したい」と考える人たちが増えてきたことです。
さらに、その先の死んだ後も、自分の意思を反映させたいとか、「死後の権利」といったことも言われるようになってきています。
終活意向調査などを見ますと、終活を行なっている、あるいは行なおうと思っているという人たちの理由で多いのは、「周りの人に迷惑をかけたくない」ということですね。
「世話になりたくない」あるいは「迷惑をかけたくない」という価値観は、私は、団塊世代の価値観に近いのではないかと考えています。
団塊世代は、自立心が強く、共同体的なものはどちらかというと忌避するような世代です。この世代が終活世代になってきたことによって、終活の価値観にも影響しているのではないかとも考えられます。
いずれにしても、人口構造と価値観の変化が、終活が注目されるようになった背景にあり、そこに「終活」というネーミングの面白さや、各メディアが飛びついたことなどによって、終活が注目を浴びるようになりました。
今のお話は、生活者のお話でしたが、終活のマーケットやビジネスの拡大・縮小という面では、どのように見ていらっしゃいますか。
終活をマーケットとして捉えた場合には、さほど拡大はしていませんね。
拡大しているのなら、例えば、「ソナエ」ももっと売れて良いはずですが、部数はさほど増えてはいません。
終活の定期発行の専門誌も「ソナエ」以外には出てきておらず、年に1回、ムック本を出すという程度にとどまっています。
マーケットについては、塚本さんはどう見られていますか。
終活マーケットといっても、葬儀、お墓、相続など従来からあるものがほとんどで、新しいものは整理関係(生前整理、遺品整理、家じまい等)など、一部に限られます。そのほかにも、終活に関わる新商品・サービスはいろいろ出てきていますが、新しいマーケットと呼べるほどにはなっていませんよね。
赤堀さんは、マーケットがさほど拡大していないのはなぜだと思いますか。
特に都会の一人暮らしの人たちを中心として、終活を意識したり、考えたりする人は増えてきたけれども、実践する人はあまり増えていないからではないでしょうか。
典型的なのは、エンディングノートです。ノートそのものは、すごく売れていますが、書いている人は、2~3%もないと言われている状態です。
あるいは、お墓を生前に用意する人が増えたのかというと、そうでもないし、葬儀の生前契約が行なわれるようになったわけでもありません。
ただ、終活の一歩手前、例えば、「アクティブシニア」と呼ばれる領域は、終活に比べると、実践する人が増えてきていると思います。
終活だけではなく、それよりももう少し幅広くとらえて、最後までどういう風に生きるのかを考える中で、死のことも考えたり、準備をして、後は楽しく生きる領域をマーケットとして捉えると、マーケットは確かに大きくなってきています。
今のお話は、これからの終活マ―ケット、終活ビジネスを考えていく上でヒントになりますね。
死を考え、語ることはタブーではなくなった
次の質問です。終活の現状を見られていて、終活の良い点と思われることをお聞かせください。
終活の一番良いと思うことは、死を考え、語ることはタブーではなくなったことです。自分の死を考えるということは、生き方を考えることにもなりますし、「人生100年時代」と言われようになった中で、どういう風に生きていくのかということを考える雰囲気がでてきたことは、とても良いことだと思います。
死を考え、語ることはタブーではなくなったというのは、例えば、どのようなことが挙げられますか。
例えば、「ソナエ」の創刊1周年の時、読者を対象に「棺桶プレゼント」を行ないました。 「ソナエ」を創刊するに際し、供養業界の人達からは「死を茶化してはいけない」と言われていましたので、「棺桶プレゼント」はどのような反応になるか私も心配しました。
でも、読者からは、予想していた以上の応募があり、応募理由にも「不謹慎である」といったネガティブなことは書かれておらず、死を考えることはタブーではなくなったのだと実感しました。
そこで、創刊2周年には「骨壷プレゼント」、3周年には「塔婆プレゼント」を行ないました。1周年の「棺桶プレゼント」の時と同じように、ネガティブな反応はありませんでした。
このように、死を考え、語ることがタブーで無くなったのは、終活ブームがもたらしたことなのか、先程言った、人口構造や価値観の変化によって自然とそうなったのかはよく分かりません。多分、両方の要因が絡んでいるのではないでしょうか。
商業主義が行き過ぎている
では、現状の終活の悪い点と言いますか、問題・課題と感じられていることをお聞かせください。
一番疑問として感じていることは、商業主義が行き過ぎているのではないかということです。
私も先ほどからマーケットという言葉を使っていますが、人間の逝き方、死に方に関わることを、マーケットという言葉で括ってしまっていいのか。
逝き方、死に方まで全部、消費行動として捉えてしまっているのは、全てが悪いとは言いませんが、行き過ぎてしまっているのではないかと感じています。
行き過ぎてしまっているというのは、例えば、どのようなことですか。
典型的なのは、インターネットを活用して、葬儀社、墓石店、お坊さんなどと生活者をマッチングさせるIT関連事業者の企業姿勢です。
彼らは、安い、簡素、全国一律といった経済合理性を追求する商業主義を、供養分野にも持ち込んだわけです。
私は、供養や弔い、宗教というのは、商業主義やビジネスが触れてはいけないところがあると思うのです。
彼らは、そういうところにまで経済合理性を持ち込み、ズケズケと土足で踏み込んでしまっています。
商業主義が触れてはいけないところとは、どういうところですか。
例えば、葬儀の中には、故人の魂をあの世に送るという宗教的な機能があります。
例えば、感謝の気持ちを表わすお布施というものがあります。お布施は、経済合理性によって作り上げられてきたものではなく、気持ちの問題として出てきたものだと思うのです。
それをIT企業の人たちは、経済合理性を追求するという形でズケズケと土足で踏み込んでしまったがために、葬儀における宗教的なものがガタガタと崩れてきています。
最近は、お坊さんを排除しようという動きまで出てきています。「お坊さんのいないお葬式」を打ち出すところがあちらこちらで出てきたのはその典型ですが、私は、果たしてこれでいいのだろうかと感じています。
宗教的なものが崩れてきたのは、IT企業だけの問題でしょうか。
確かに、IT企業だけの問題ではありません。葬儀を施行する葬儀社も、宗教的なことはあまり言わなくなっています。
喪主、遺族が求めることを満足させるのが葬儀社の務めであるという考え方が大半で、喪主、遺族が無宗教で良いと言えばそのまま無宗教で行なっています。
あるいは、社員教育なども、喪主、遺族に満足してもらうために、宗教的な教育などより、グリーフケア教育に力を入れている葬儀社が多くなっています。
最近は、宗教者まで「遺族に寄り添う」とか、「グリーフケア」などと言っていますね。
そうなのです。宗教者も言っても良いですが、葬儀おける宗教者の本来の役割は、故人の魂をあの世に送るとか、引導を渡すということです。これは宗教者にしかできない行為だと思うのです。
宗教者も、最近はそういうことを強く言わなくっています。強く言わずに、グリーフケアなどと言い始めたことは、それで良いのかと思いますね。
墓石業界については、どう思われますか。
墓石業界も同じです。
「ソナエ」を発行していて典型的な例を挙げますと、創刊から9年になりますが、6年目位までは、「お墓の引っ越し」で統一していて、「墓じまい」という言葉は使っていませんでした。
墓石業界でも、「墓じまいは、あくまで改葬の一部である」として、墓じまいという言葉を使うことに抵抗していました。
ところが、墓石業界の方から、「墓じまいの特集をやりましょうよ」と言ってきました。
「ソナエ」より先に、墓じまいを煽り始めたわけです。
墓石業界まで「墓じまい」と言い始めたから、「墓じまい」が余計に加速した感じですよね。
極端に言えば、「お墓はいらない」という雰囲気になってしまっています。
例えば、散骨は、表向きは「海が好きだったから」とか「自然に還る」とか、きれいな取り上げ方をされていますが、実態は、遺骨の処理の方が多いですからね。
そうした実態である散骨がもてはやされていることに対して、供養業界ではおかしいと思っている人はいっぱいいるけれども、不思議なことに、それを口に出していう人はあまりいません。
言わないどころか、「墓石が売れないなら樹木葬に乗り出す」とか、「お坊さん派遣をするなら、こっちの紹介会社と契約した方がいい」などと言っています。
これでは、自分で自分の足を引っ張っていると言わざるを得ません。
100年、200年と続きてきた供養文化が、ネット企業を初めとした行き過ぎた商業主義によって、ここ10年くらいで、そこまで崩れてしまったということですね。
そうです。ネット系の新規参入企業が、供養業界にも経済合理主義を持ち込んできたことに対し、旧勢力というか、供養を大切にしてきたはずの人たちも、一気に雪崩を打って、安い、簡素、全国一律といった経済合理主義に走ってしまっているということです。
それに生活者も乗せられて、戸惑っている人たちも少なくないというのが、現状ではないでしょうか。
ワンストップにはニーズはあるが、成功していない
では、「終活の今後」についてお聞きします。今後は、どうなると見ていらっしゃいますか。
マーケットは広がらないにしても、終活の対象世代は年々入れ替わっていきますので、終活に興味を持ったり、実践する人たちは一定層いると思います。
ですから、現在のような感じで、ズーッと安定的に推移してだろうと見ています。
今後、変化が起こるとしたら、終活に参入してくる企業側の方でしょうね。
具体的にはどのようなことですか。
ちょっと前までは、IT系を初めとしてベンチャーがいっぱい参入してきて、ここ1年位は金融機関がたくさん入ってきています。
金融機関では、富裕層だけを対象とした終活サービスが多いので、「貧乏人は終活ができない、終活するためにはお金が必要」といった雰囲気が出てきてしまうことが懸念されます。
一方で、自治体も、主として貯蓄が平均以下の人たちを対象に終活支援を始めていますが、さほど広がってはおらず、これからの課題でしょうね。
終活サービスのワンストップ化については、どうみていますか。
利用者からみれば、葬儀は葬儀社、お墓は墓石屋、財産は金融機関といったように個々に依頼しなければならないより、一ヵ所で、ワンストップで済めば便利です。
ですから、人々のニーズがあり、そのことは終活に参入した企業の多くは気付いていますので、ワンストップ化にトライしている企業も多くあります。
しかし、なかなかうまくいってはおらず、成功例と言えるものはまだありません。
ただ、ニーズがあることは間違いありませんし、企業も必要性を感じていますから、マーケットの中では、成功例を作り上げることができた企業やグループが強くなっていくでしょうね。
周りの人との関係をつくりなおす終活を
これから終活を始めようと思っている生活者へのアドバイスをお願いします。
是非、「ソナエ」を読んでください。そして、先ほど言いましたように、今、商業主義が行き過ぎていますので、それに振り回されない終活をしてもらいたいと思います。
振り回されないためには、終活の原点である、自分がどういう最期を迎えたいのか、残された人生をどう生きていくのかから始めると良いと思います。
その時に、自分だけで決めてしまうのではなく、子供や兄弟、親しい友人など周りの人との関係もつくり直せるような終活をしてもらいたいですね。
「周りの人との関係もつくり直せるような終活」がなぜ必要なのですか。
自分一人で全部決めても、亡くなった後の葬儀、埋葬、死後の手続き等々は、誰かに依頼するしかありません。そういう意味では、依頼をできる人との関係を作るのが終活であるわけです。
本当に依頼出来る人がいないのであれば、NPOに依頼するのもいいだろうし、企業や行政に頼むのも手だろうと思いますが、周りに頼める人がいるのに、自分一人で決め、第三者に依頼し、経済合理的に済ませてしまうというのは、寂しいですね。
周りの人との関係も作り直して、経済合理的ではない、気持ち的に本当に温かな最期を迎えられるような終活を行なうと、日本人全体が精神的に豊かになるのではないでしょうか。
長年続いてきたものには意味がある
最後に、終活事業者へのアドバイスや要望をお願いします。
先ほど言いましたように、人の死に関わる終活には、経済合理性だけで割り切ってはいけないところがあると思います。
特に供養とか宗教とかは、気持ちが重要であり、それらを全部お金に換算してはいけない領域なので、そのことをわきまえていただきたいですね。
葬儀や法要、お墓などの供養文化や伝統は、50年、100年と続いてきたもので、それだけ続いてきたということは、それだけの意味、価値があったわけです。
もちろん、全ての意味や価値が、今の時代に合っているとは言えない部分も多々ありますが。
そこのところを、ネット系を中心とした新規参入業者も、もう少し考えてもらうと、経済合理性一辺倒ではない入り方ができると思うのです。
経済合理性一辺倒の終活では、生活者にとっても幸せなことではありません。
だから、これまで続いてきた意味や価値を考えて、その意味や価値をもう少し大事にしていただきたいと思います。
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塚本 優(つかもと まさる)
終活・葬送ジャーナリスト。早稲田大学法学部卒業。時事通信社などを経て2007年、葬祭(葬儀、お墓、寺院など)を事業領域とした鎌倉新書に入社。月刊誌の編集長を務めたほか、終活資格認定団体を立ち上げる。2013年、フリーの終活・葬送ジャーナリストとして独立。 生前の「介護・医療分野」と死後の「葬儀・供養分野」を中心に取材・執筆活動を行なっている。