旦木瑞穂の終活百景 第十二景『お墓や仏壇に変わる供養の形「手元供養」の名付け親「手元供養協会」』

[2016/10/24 00:00]

みなさんは、「手元供養」という言葉をご存知でしょうか。

かつては、故人を偲び、供養するために必要な対象は、お墓や仏壇しかなかったと言っても過言ではありませんでした。

しかし近年、核家族化や都心部への人口の集中などといった、社会変化における様々な要因から、お墓や仏壇離れが進んでいます。

そんな中、樹木葬や散骨など、新しい供養の形が登場していますが、「手元供養」もその一つです。

文字通り、手元で供養することを「手元供養」というのですが、今回はその、「手元供養」という言葉を作った『NPO手元供養協会』会長であり、手元供養品を扱う「京都博国屋」の店主を務める、山崎譲二(やまさき じょうじ)さんにお話を伺ってまいりました。

山崎譲二氏

父親のガン発覚と余命宣告

山崎譲二さんは、愛媛県松山市出身。4代続く魚屋の次男に生まれました。

日本大学理工学部への入学を機に上京。卒業後、かつてのセゾングループに入社。都市開発に携わり、まちづくりプランナーとして、全国のニュータウン造りに深く関わってきました。

結婚して子どもができ、転勤が多かったこともあり、大学入学から30年以上、ほとんど地元松山には帰ることはありませんでした。

しかし2002年、父親のガンが発覚。余命1年と宣告されます。

「ものすごくショックでした。なんて自分は親不孝ものなんだと思いました。僕は次男坊だから、かなり好き勝手をさせてもらいました。ガンと聞いてからは、何度も子どもを連れて松山に帰りました」

そして、1年余りで亡くなってしまいます。

「死んでからはずっと、『親父への感謝の気持ちをどうしたらいいんだろう』と、そればかり考えて、後悔の暗いトンネルから抜けられずにいました。でもあるとき、エターナルジャパンという会社の、お骨を粉にしてセラミックと混ぜて、高温高圧をかけて作るプレートをインターネットで見ました。そのとき、『お骨を偲び(しのび)の対象にすれば良かったのか』と気がつきました」

山崎さんは、「素直に仏壇やお墓を受け入れられなかった」と言います。

「僕は昭和43年に日大に入学したので、日大闘争を経験しています。僕はどこにも属さない『ノンセクトラジカル』で、政治運動に関心が無い『ノンポリ』ではありませんでした。もしかしたらその頃に、新しいことをチェックする体質や、自分の頭で徹底的に考える気質は培われたのかもしれません。話を聞いたり本を読んだりして、なるほどとは思いますが、自分の納得が得られないことには受け入れられないんです。世間の常識と自分にとっての常識は違う。学園闘争を経験してなかったら、すんなり仏壇やお墓を受け入れていたかもしれません」

世間の評価がどうであろうと、自分の納得なしでは新しいものを受け入れられない姿勢は、団塊の世代以降、一般的になってきた印象があります。

「自分なりの供養がしたかった。でもやり方が分からなかった。故人に毎日感謝したいと考えていました。亡くなったその人そのものは、お骨しか残りません。記憶や形見はあるかもしれませんが、お骨に比べたら重さが違います。お骨を偲びの対象にしようと考えたら、気持ちがしっくりきたんです」

手元供養協会設立までの経緯

目標が定まると、山崎さんは行動に移ります。

かつて、セゾングループで働いていた頃に知り合った友人で、東京芸術大学美術学部デザイン科で教授を務めている、清水泰博(きよみず やすひろ)さんに相談を持ちかけました。

「彼は、清水焼の古窯の次男です。父は日本における抽象彫刻の第一人者であり、京焼の名家として知られる清水家の7代目として六兵衞を襲名した、清水九兵衛です。大切な人を偲ぶための対象となるものは、同じものが世の中に二つと無いものにしたいと考えて、自分が好きな焼き物に目をつけました。僕が地蔵さんのイメージを描いて、彼に形を起こしてもらいました」

焼き物は、土やその日の湿度、窯のある場所などで、できあがりが違ってきます。

「まず800度で焼いて、次に1,230度で焼きしめる2度焼きの技法を使っています。焼くときに、土の厚みが違うとぐにゃっとなって割れやすいのですが、この地蔵は厚みが違うので完成まで苦労しました。半年くらいは試行錯誤を繰り返しました」

遺骨が納まる「おもいで碑 地蔵」

穏やかな表情の「おもいで碑 地蔵」は、山崎さんが店主を務める「京都博国屋」の人気商品になっています。

「初めは、自分のために手元で供養するためのものを追求しました。当時はまだ『手元供養』という言葉は使っていませんでしたが、いろいろ調べていくうちに、『自分みたいな考えの人は他にもいるんじゃないか』『田舎から出てきて、大切な人を亡くして、伝統的なお墓や仏壇に価値を見出さない。同じような人は少なくないんじゃないか』そう思うようになりました」

山崎さんは地蔵を携えて、葬送業界の主だった人物に話をして回りました。

しかし反応は、「新しい仏具」「仏具と何が違うの」というものでした。

「『手元供養』を、文化として広める必要があると思いました。そのために、『手元供養協会』を立ち上げました」

手元供養協会では、「手元供養」を、“故人を身近に感じながら、心のこもった供養をすること。 焼骨を自宅等で保管し、慰霊の場を身近に置いて故人を偲ぶ方法”と定義しています。

「手元供養」の社会的認知と、普及の為の啓蒙活動を健全に行なうことを目的として、2005年に「手元供養協会」が誕生しました。

さまざまな手元供養品

手元供養協会の活動

手元供養協会本部は、京都市中京区寺町通にある「京都博国屋」の中にあります。工房兼事務所では、手元供養品が手作業で作られています。

博國屋開業15年を記念した新商品「小町」シリーズの1つ「桜と拭き漆」
博國屋の手元供養品のほとんどが手作り

手元供養協会は、「手元供養」が、樹木葬なども含めたお墓や散骨などの葬法と共に、 葬送の一つのスタイルとして広く普及し、日本の新しい供養文化として定着・発展に寄与することを願い、活動しています。

また、宗教儀礼やしきたりにとらわれない新しい供養の選択肢として、遺骨そのものを収納する様々な形状のオブジェや、装飾を施したミニ骨壷、遺骨や遺灰からメモリアルプレートやペンダントなどに加工する方法などの提案を行なっています。

設立して11年が経ちましたが、「手元供養展」を皮切りに、3年目からは葬送全体を捉える「自分らしい葬送を考える企画展」を、北は札幌から南は福岡、長崎まで全国22都市で開催。延べ4,000人の来場があり、手元供養文化とともに新しい葬送の啓蒙・普及活動を行なってきました。

「初めは、大阪の大蓮寺応天院の住職 秋田光彦さんが主催した、エンディング見本市に参加したことがきっかけで、それ以来、『自分らしい葬送を考える企画展』という名前で、エンディングに関するその道の第一人者を呼んで、講演や無料相談と、具体的な展示をパッケージにして全国を回り、これまで30回以上行なってきました」

いま、あちこちで行なわれているエンディング展示会の草分けです。

「展示会には、60代から80代くらいの方が来場します。誰もが臨終から葬儀、供養まで、フルラインで心配しています。『自由に考えていいんですね。気が楽になりました』とお礼を言われることもあり、来場者の方に、どれだけ励まされたことか分かりません」

少ないスタッフで、手作りの展示会を開催し、多くの情報を提示してきました。

「僕は『手元供養』という言葉を商標登録はしませんでした。広まらないと意味がないと思ったからです。だけど、今となっては玉石混交です。商標登録しておけば、問題になりそうなところには言葉を使わせないこともできました。どっちが良かったのか分かりません」

2011年には、「こういうときだからこそ来て欲しい」との申し出があり、『命と祈りのコンサート』と名前を変えて、岩手県遠野市で企画イベントを行ないました。

手元供養品の役割

「手元供養」は、今や多くの人に受け入れられています。「手元供養」を選択するのは、やはり山崎さんのような、団塊の世代以降の年代の方が多いのでしょうか。

「年齢関係なく、心から大切な人を亡くしてしまった人が『手元供養』を選んでいます。『手元供養』には2つの意味があります。1つはグリーフケア。2つめはお墓の代わりです」

「手元供養」が日本に広まった大きなきっかけは「9.11 アメリカ同時多発テロ事件」です。同時多発テロで大切な人を亡くした多くの人が、亡くした人の写真を入れたペンダントをしていました。

「日本で初めに広めたのは、『天使ママ』という、子どもを亡くした母親のグループです。最初はグリーフケアを理由に、圧倒的に身につけるものが選ばれました。それからだんだんと部屋に置く、お墓の代わりタイプのものが増えてきて、今はほぼ拮抗しています」

若い人は身につけるタイプのものを、年配の人はお墓の代わりになるタイプのものを好む傾向があるといいます。

「最近の『手元供養品』は、ファッション化が進みすぎて、先のことを考えていないものが多くなってきました。『博国屋』で作っている『手元供養品』は、すべて最後、棺に入れて火葬できるように考えられています。金属系のものは棺に入れてもらえません。お骨は本来、土に返すものです。一緒に火葬すれば楽だし、それが一番自然の形です。だから竹や木で作り、陶器などの場合は、正絹ちりめんの納骨袋に入れてから、陶器の中へ納めます。それを取り出して火葬すれば、一緒に天国へ行けるように考えられています」

手元に置いておきたいと思っていた人が亡くなった時が、「手元供養品」の役割を終える時であることは間違いありません。

「『手元供養』にお墓の役割を持たせるようになった背景には、家意識の希薄化や宗教離れ、核家族化、そして少子化、若者の貧困などが関係しています。葬儀、供養の分野でも「多様化」「個人化」が強まり、昔は許されなかった「自分らしく」「故人らしく」そして、愛しているからこその思い「子どもに迷惑をかけたくない」をキーワードとする葬送が選ばれる時代になりました。樹木葬や合葬墓が増えているのも、自然な流れです」

建仁寺両足院 緑雲苑
青々としたスギゴケが敷き詰められている

山崎さんは、京都の東福寺荘厳院、即宗院、建仁寺両足院、大徳寺正受院の住職からの依頼を受けて、樹木葬墓地を設計しています。

いずれの寺院も、古くからある墓地の一画に、樹木や杉苔、石を活用した、シンプルでありながら、日本古来の伝統を感じさせる樹木葬墓地を設けています。一区画は20cm四方ほど。さらし木綿の袋に遺骨を入れ、そのまま土に埋められるため、自然に土に還ります。

「どこかの樹木葬墓地で、お骨を晒し木綿(さらしもめん)の袋に入れて、コンクリートで固められたマンホールに入れていくシステムのところがありますが、あれは樹木葬とは言わない。ましてや、粉骨すれば体積が減るから料金が安くなるなんて、僕は許せない行為だと思っています」

山崎さんはゆっくりと静かに話します。

「重要なのは、人間としての命の連続性です。親に対する感謝の心は、子どもに引き継がれていきます。供養には人間性を保つ役割があると思います。お金がないなら手元供養でもいい。『手元供養品』は、自分を律する機会を与える役割も持っているんです」

「不易流行」と手元供養

2025年には団塊の世代が75歳以上になり、2040年には、65歳以上の高齢者の数がピークを迎え、「多死社会」に突入します。

「おくりびとブームが去って、近年は、葬儀の件数は上がっているのに、単価が下がっています。だから利益率が下がり、月給も下がり、葬送業界全体が変貌してきています。それはなぜなら、業界の人間が新しいニーズを発見して、新しい価値を創造して来なかったからです」

最近は、他業界から参入した企業の方が元気な印象を受けます。その理由は、彼らの方が、エンドユーザーのニーズを分かっているからだと言えます。

「しかし、『不易流行』(ふえきりゅうこう)という言葉があります。変わってはいけないもの、不易の部分と、変わらないといけないもの、流行の部分。時代に沿ったライフスタイルに合わせていかないといけませんが、根っこのところは変えちゃいけない。『手元供養』も含め、葬送業界全体に言えることですが、供養をファッションだけで捉えてはいけません。葬送業界の人間は、コーポレートメッセージとして、不易の部分を伝えていくべきだと思います。不易流行のバランスを崩すと、業界全体のバッシングにつながります。命を粗末にしないことが大切です」

手元供養は、個人が尊重され、多様化が進む時代の流れに合っていたのでしょうか。

「供養する心というのは、個人の心の問題です。見栄とか世間体とかは関係ない。お金をかければいいってものではありません。『故人を大切にする』『偲ぶ』『感謝する』というキーワードの中で、どう考えるかが重要です」

もともと仏教は、手を合わせる対象が必要でした。お釈迦様が亡くなった後、お骨は8つに分けられ、仏舎利に寺院ができ、そこに手を合わせるようになりました。人も死を迎えると、魂は天に昇り、肉体は地に戻ります。お墓に手を合わせると、お骨を依代として、故人の魂が帰ってくると考えられてきました。

「依代はお骨ですから、納める場所はお墓でなくてもいいんです。手元供養は行為、手元供養品は手元供養を行なうための道具です。それらは一体で、そういう価値をもたせたものでなくてはいけない。お骨を怖いと感じるのは、誰のものか分からない場合です。大切な人のお骨は、愛着の対象になるんです」

現在は、「大切な人のお骨はいつでも手元に置いておきたい」と思う人が少なくありません。

「家」のつながりが希薄になったと言われますが、「個人と個人」のつながりは、昔も今も変わらないのではないかと思います。手元供養は、今後さらに広がっていくのではないでしょうか。

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旦木瑞穂(たんぎ みずほ)
1975年愛知県出身。
産経デジタル「New Roses Web」にてグルメ・イベントレポートや、鎌倉新書「月刊 仏事」で葬儀や介護に関する記事などを連載。
各種パンフレット、ガイドブックなどの企画編集のほか、グラフィックデザイン、イラスト制作も行なう。

Twitter:@mimizupon

[旦木瑞穂]