古田雄介のネットと人生
第13回:故人のサイトを引き継ぐということ――闘病記専門古書店「パラメディカ」の事例

[2017/6/26 00:00]

インターネット上に古くから存在する闘病記専門古書店「パラメディカ」。その店主である星野史雄さんは2016年4月に亡くなりました。生前のご本人は、没後のサイト閉鎖を示唆することもありましたが、「パラメディカ」は今日まで引き継がれています。

故人のサイトを引き継ぐとはどういうことなのか、時系列で追いながら考えを巡らせてみましょう。

妻との死別からライフワークとなった闘病記専門古書店

星野史雄さんが闘病記を蒐集するようになったのは、16年間連れ添った奥さんが亡くなったことがきっかけでした。

闘病記を探して読む習慣は1993年に奥さんが乳がんと診断されてから身につきましたが、1997年1月に死別してからは各地の古書店や図書館を回って探すほどに熱を上げます。

そこには「あまりにも大きな喪失感にとらわれ、自分自身が精神的に危ないのではないか」(自著より)という思いがありました。

そうして集めた膨大な闘病記のコレクションをオンライン古書店のかたちで世に出したのは、1年半後の1998年10月。それが「パラメディカ」の始まりです。

当時は闘病記の多くが自費出版で、患者目線で病を語る文献に注目する人はあまりいませんでした。しかし、同じ病気で苦しむ人からの言葉を求める人がいることを星野さんは身をもって知っていたのです。

2004年頃の「パラメディカ」トップページ。発足時から基本的なレイアウトは変わらない

パラメディカの蔵書はいつしか数千冊の規模に膨らみ、周囲からの評価も上がってきました。最盛期は1カ月で50~60冊の注文を集めるまでになったといいます。

販売後も目録はサイトに残し、データベースとしての価値も上がっていきました。しかし経営は常に厳しく、大学の非常勤講師の報酬と親から継いだビルの賃料などでどうにか赤字を補っていたそうです。

そうして創業12年に達しようという2010年夏、激しい腹痛がきっかけで自身が大腸がんを患っていると発覚します。58歳のときでした。

それから亡くなるまでの6年弱の間もパラメディカの活動は可能な限り継続し、2013年に入って「しばらく、休業いたします」とサイトで告知したあとも、自身の体調も含めた情報を更新し続けました。

最終更新は2015年12月31日。以後もサイトは閉じられることなく、積み上げられた闘病記のデータベースは多くの人の目に触れ続けてきました。

2016年10月頃のトップページ。星野さんが亡くなったあとも、しばらくはそのままの状態で残されていた

星野さんはパラメディカの閉鎖を考えていた

自分の死後はパラメディカをどうしたいと考えていたのでしょう。2014年5月にインタビューした際、星野さんはこう話していました。

「すべて畳もうと思っています。サイトはITに詳しい姪に削除するよう伝えていますし、実店舗にある本も捨てるか売却するように妹に言ってあります。図書館への寄贈などはまったく考えておりません。苦労なしに手に入れた資料は、大切にされないことを知っていますから」

虚無的な発言ではありません。長年の活動や社会の変化などが重なって、すでに闘病記の価値が世間に認められるようになったという達成感に近いものが根底にあったうえでの考えでした。

「(自らも校正に携わった)『闘病記文庫入門』(日本図書館協会)の著者である石井保志さんから、全国百箇所以上に闘病記文庫ができていると聞きました。各地の文庫のうち、奈良医科大図書館や都立中央図書館などは長く残ると思います。私の役目は、ほぼ終わりました」

実際、この半年後も、右肺に転移したがんに気をもみつつ、時間を見つけては電車に飛び乗り、古書店で闘病記を探す日々を送っていました。社会的な使命は果たしたが、個人としてはライフワークとして闘病記を追い続ける――そうしたスタンスに立っているようでした。

そして現在。パラメディカのサイトはNPO法人「わたしのがんnet」が引き継ぐかたちで運営が続けられています。わたしのがんnetは、がんを患う当事者の立場で社会に働きかける団体で、2014年9月の設立時から星野さんと関わりを持っていました。

星野さんが亡くなる少し前、団体理事がベッドサイドでパラメディカを引き取ろうと持ちかけたら、星野さんは静かに頷いたそうです。資産を大切に扱ってくれる仲間を得たことが考えを変えるきっかけになったのかもしれません。

ただ、「何かあったら対応を引き受ける」という考えだったので、星野さんの没後も積極的には介入しませんでした。サイトが存続している限りは静かに見守っているつもりだったといいます。

2016年9月にパラメディカ全体を「わたしのがんnet」のドメイン内に組み入れたのも、元のサイトが使っていた@niftyの無料ホームページサービスが終了したのが直接の理由でした。

(この無料ホームページサービスの終了については、この連載の「ネットに存在するマイページはいつでも死にゆく」をご参照ください)

同じ考えから、最終的に星野さんのもとに残った約8千冊の闘病記も、遺族の許可の元、貸倉庫(のちに空き家に移動)に移設して散逸を防ぐに留めていました。

2017年6月現在のパラメディカトップページ。「わたしのがんnet」内のドメインに移設している

力のこもった遺産は新たなつながりを生んでいく

しかし、これらの資産を活かす新たな取り組みを始めようという思いは、少しずつ、しかし確実に大きくなっていったといいます。

「集めた闘病記は売り物でもあると思うのですが、星野さんはそれぞれにこまめに付箋を貼っていました。それを1冊2冊読むと、これまで何千冊と闘病記を読んできた星野さんならではの視点がしっかりと残されていることに気づかされます。倉庫にはそれが大量に眠っているわけです。そのままにしておくわけにはいかない。きちんと活用するのは大変ですが、そう思わされるんですよ」(理事)

蔵書を病気別に分類し、カテゴリーごとに病院の図書コーナーに一定期間貸し出したり、グループで闘病記を読み合わせるイベントを催したり、星野さんが亡くなった後に出版された闘病記を蒐集・分析したり。構想はいくつか固まっていて、複数の病院から前向きな声もかけられているそうです。

わたしのがんnetのほうでも具体的な準備が進められており、早ければ今秋にも明確なアクションが公表されるかもしれないとのことです。

遺産によって動かされる。これはパラメディカを引き継いでから気づいた感覚だといいます。「闘病記の力でもあるし、星野さんの力でもあると思いますが、力のこもった遺産は新たなつながりを生んでいくんですよね。自然にまかせると新しいつながりを生んでいく。それがすごいなと感じています」(理事)

星野さんはパラメディカはすでに社会的な役目を終えたと話していました。

しかし、生涯を終えるまで続けたライフワークで蓄積された熱は、本人が亡くなったいまも残っているのではないかと思います。その熱を後世に伝える媒体として、インターネットが果たした役割も小さくはなかったのではないでしょうか。

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古田雄介(ふるた ゆうすけ)
1977年生まれのフリー記者。建設業界と葬祭業界を経て、2002年から現職。インターネットと人の死の向き合い方を考えるライフワークを続けている。書き手が亡くなった100件以上のサイトを追った書籍『故人サイト』(社会評論社)を2015年12月に刊行。2016年9月以降、デジタル遺品研究会ルクシー(http://www.lxxe.jp/)の理事を務めている。

[古田雄介]