旦木瑞穂の終活百景
第十八景『278もの寺院から墓地を移転した、公園墓地の先駆け「名古屋市平和公園」』

[2017/1/25 00:00]

広大な集合墓地公園

名古屋市が管理する「名古屋市平和公園」は、名古屋の東側の丘陵に位置する、広さ約148haの広大な墓地公園です。

東京ドームの面積が4.7haですから、その30倍以上もあります。

名古屋市千種区にある平和公園は、名古屋駅からだと、地下鉄と市バスを利用して、40~50分ほどの距離です。

自然に囲まれたなだらかな坂を登って行くと、木々の向こうに墓園が見えてきます。坂を登り切る頃に視界が開けると、見渡す限りにお墓が続きます。

太陽の光を受け、丘の斜面に墓石が立ち並ぶ光景は圧巻!墓石群の向こうには、名古屋の街が広がります。

墓地の向こうに名古屋市の中心部が霞む
夕日を受ける平和公園
多くの墓碑に新しい花が供えられていた
歴史を感じさせる墓碑も見られる
後継者を失った無縁墓が集められている

私が訪れたのは2016年も残りわずかという年の瀬でしたが、お墓参りの車が列を成し、あちこちで線香や花を供える人々を見かけました。

園内の地図を見ると、宗旨宗派でエリアが分かれており、さらにそのエリア内も細かく区切られ、その中には寺院の名前が書き込まれています。園内を見渡すと、ところどころに「◯◯寺」と書かれた看板が立っています。

平和公園の園内地図

実は「名古屋市平和公園」は、279の寺院が宗旨宗派ごとに集められた集合墓地なのです。分けられた区画内は、宗旨宗派の異なる寺院が、独立して管理しています。そのため、区画によって個人墓の広さや墓石などが異なっています。

一体なぜ、279もの寺院の墓地が、現在の場所に集められることになったのでしょうか。

1965年から2002年にわたり、名古屋市計画局や土地区画整理事務所、都市整備公社などで、長年土地区画整理事業に携わってきた、名古屋市職員OBの、恒川平章さんに伺いました。

名古屋市職員OB 恒川平章さん

戦災復興計画

「名古屋市平和公園」の成り立ちを知るために、話は太平洋戦争終戦直後まで遡ります。

「戦災復興都市計画」という言葉をご存知でしょうか。太平洋戦争後、空襲を受けて破壊され、焼け野原となった都市の復興のために、昭和21年に策定された都市計画です。

太平洋戦争以前の日本は、大都市の都心部でも木造建築が主流でした。そのため、アメリカ軍の焼夷弾による空襲を受けると、そのほとんどが焼け野原と化し、都市機能を失いました。

終戦を迎えると、日本は都市の復興が急がれ、その際は不燃化が求められました。

昭和20年11月には「戦災復興院」が設けられ、直ちに「戦災復興計画基本方針」が策定され、閣議決定が行われました。21年には太平洋戦争で災害を受けた都市の復興を促進するため、復興計画や緑地地域などに関して、都市計画法などの特例を定めた「特別都市計画法」が制定され、各都市で土地区画整理事業による復興への取り組みが始まりました。

対象となったのは、全部で115都市。当初は合計で約60,000haが区画整理の予定地にされました。道路を広げ、道路を増やす、区画整理を実施することは、都市の復興や発展につながると考えられていたのです。

名古屋市の戦災復興計画

「特別都市計画法」の制定を受けて、名古屋市では、佐藤正俊市長が復興調査会を組織し、基本計画を策定しました。

佐藤正俊市長は、当時三重県の伊勢市に疎開していた、元内務省の都市計画技術者である田淵寿郎氏に白羽の矢を立て、助役待遇の技監に任命し、市の建設行政全てを掌握させました。田淵氏は、内務省時代には国内各地の河川改修事業に従事し、その後大陸に渡り、中国各地の都市計画に携わってきたという経歴の持ち主でした。

実はこの田淵氏こそ、名古屋市内の中心部にあった279もの寺院の墓地を、現在の場所に集約させようという「墓地移転」の発案者です。

その理由は、「広くまっすぐな道路を造るため」でした。田淵氏は、名古屋の発展には広くまっすぐな道路が欠かせないと考えたのです。

「当時はあまりにも大胆な発想に、市役所内外でも反対する声が多かったようです。しかし田淵さんは、直線で幅の広い道路は、車社会の到来を見越したものであることはもちろん、戦争や地震などの災害時には、火事が広がらないための防火帯としての役割や、スムーズな避難や救助のためなど、『防災を考える上で必要不可欠だ』と主張しました」

墓地整理委員会の発足

田淵氏は各宗派の代表17人を集め、「戦災復興墓地整理委員会」を作りました。初代委員長を務めたのは高間宗道氏です。名古屋市中区にある、乾徳寺という曹洞宗の寺院の住職でした。高間住職は279の寺院と名古屋市との調整役として尽力し、墓地の移転費の積算などまで担っていたといいます。

本来寺院墓地は、管理する寺院の敷地内や、その近隣にある場合がほとんどです。当時名古屋市内にあった、279もの寺院もそうでした。しかし田淵氏は、都心部から墓地をなくすことで、墓地に使われている約18haの土地を、名古屋市の発展のために有効活用したいと考えたのです。

そうして昭和22年、279寺院の所有する墓碑189,030基を、現在の「名古屋市平和公園」、市内の東部丘陵にある約148haの土地に移転する「墓地移転」がスタートしました。

各寺院に持ちかけられた「墓地移転」の条件は、「現在の墓地の約1.3倍の土地と交換できる」というものでした。

「広い土地が手に入るとはいえ、都心から離れた田舎の土地です。当初、寺と墓を分離することに抵抗があった多くの住職たちは、『墓地があるからお寺が成り立っているのに、稼ぎ場所がなくなるようで不安だ』『墓地まで遠くなり、不便になる』などと反対したようですが、高間住職は『それは仏教従事者としての堕落だ!』と一喝して、住職たちを説得しました」

紆余曲折する復興土地区画整理事業

「名古屋市役所は、区画整理に関わる人員を、最大で5課、約250名まで割きました。しかし、国も地方も徐々に財政に困窮し、当初予定していた予算を確保できないことが分かると、昭和24年には、建設省から事業の縮小を告示されました」

これを受けて、多くの都市は、過去に区画整理を実施したことがある地域や、区画整理をしても大きな効果が得られないと予想される地域を計画から外すなど、規模を大幅に縮小して対応することになります。特に東京都は、その後も計画の縮小が続き、区画整理に関しては、中途半端なまま現在に至りました。

名古屋市は、田淵氏が「広げた風呂敷を今更閉じられない」と、計画を続行。施行区域の端に当たる、昭和区や瑞穂区を始めとする一部の焼け残り地区などを、計画から外すのみの対応にとどめました。

その後、20年経っても一向に終わる気配がなく、「いつ終わるんだ」「ベトナム戦争と同じで終わりませんよ」と市役所内でも揶揄されていたという復興土地区画整理事業ですが、昭和46年には急遽、人員を増やして対応することになります。

その結果、昭和21年から46年までの25年間で、17%しか終わっていなかったにも関わらず、以降の10年で、残りの83%をほとんどやり切ることができました。

「墓地移転」は完了していない

昭和21年から始まった復興土地区画整理事業は、昭和56年には全国的に終了したとされています。しかし、移転工事の一部は残っており、完全に終わったのは昭和60年代だと言います。

名古屋市の「墓地移転」に関しても、279あった寺院のうち、277寺院の移転は、昭和40年までに終わっていました。278番目にあたる北区の寺院の移転は、昭和56年に行なわれました。そしてなんと、279寺院のうち、最後に残った1寺院の移転は、現在も終わっていないのだそうです。

「『墓地移転』は、すべての寺院が必ずしなくてはならないということはなく、置き換えられる土地である『換地』に収まればいいのです。そのため、名古屋の都心部から墓地が完全に姿を消したわけではありません。最後の1寺院となった中区にある高顕寺の墓地など、一部の墓地は、現在も寺院の近くに残っている一方で、「換地」に収まらなかった分の土地の1.3倍の土地を、平和公園内にも持っているという状態になっています」

区画整理と耕地整理

現在、名古屋市の中心部には、「100m道路」と呼ばれる幅100mもある道路がまっすぐに走っています。しばしば、名古屋名物とも言われる「100m道路」ですが、これこそまさに「復興土地区画整理事業」のたまものです。

当時は「飛行機の滑走路でも作るのか」と街の人に噂されたと言いますが、「100m道路」のみならず、街の約3割弱を道路にしたという田淵氏の計画は、非常に大胆なものでした。

区画整理の計画地となって、移転が必要となった建物は約4万件に上ります。建物をジャッキのようなもので基礎から切り離し、コロやレールを使って数メートル移動させる曳去(えいきょ)工法は、木造でも鉄筋でも同様に行われ、鉄筋だけでも30件以上移転させたそうです。

復興土地区画整理事業は、区域内の権利者全ての土地を減らすことで、道路や公園を生み出したり、保留地に当て、事業費を捻出することで進められました。そのため区域内の権利者たちは、少ない者で1割、多い者で4割の土地を失いました。

しかし、名古屋市は古くから区画整理が盛んな土地柄で、戦前から土地を改良したり、田畑を整理する「耕地整理」が進んでいたため、区画整理にも理解があったと言います。

「耕地整理時代と復興土地区画整理事業時代とで、整理の水準が多少違うため、道路の太さが急に変わる場所も一部にはありますが、それでも比較的名古屋の街は整っていると思います。耕地整理後に戦災復興があり、その後も民間の区画整理が行なわれたため、名古屋市では、区画整理を実施していない地域を探す方が難しいくらいですよ」

田淵寿郎氏の先見の明

昭和22年に整備を計画された「名古屋市平和公園」ですが、公園墓地ブームがやってくるのはあと20年ほど先のことで、当時はまだ公園墓地は珍しかったと思います。

平和公園を造るにあたり、お手本になるものはあったのでしょうか?

「分かりませんが、田淵さんの頭にはあったかもしれません。当時は国有地が多く、食糧難でしたから、耕作地にもなるということで確保した土地の一部でした。ちなみに平和公園の南側は、名古屋がオリンピックの候補地に立候補したときに、開催しようとしていた場所です。最初はすべてを公園にするつもりでしたが、途中で国が換地を交付するように言ってきたので、南側は90haほど開発しないまま残っています。墓地の集中移転に関しては名古屋のみで、おそらく他の都市ではやってないのではないでしょうか」

田淵氏が、名古屋市の都心部にある墓地を平和公園に移転させようと考えたのは、将来的に訪れる墓地需要を見込んでのことだったのでしょうか?

「墓地に目をつけたのは、名古屋市の発展を阻害すると考えたのではないでしょうか。住居地や商業地では墓地は嫌悪施設ですから。現在、東区にはラブホテルが多いのですが、あれはほとんどが墓地だったところなんです。ラブホテルのように嫌がらない施設も一部にはありますが、早めに移してしまった方が良いと思ったのではないでしょうか」

区画整理時代の終焉

もともと区画整理は、田畑を整理して宅地などにする事業でした。そのため、古くから集落がある地域は、区画整理をしようとすると移転が発生します。移転にはお金がかかるだけでなく、すでに宅地である場所を整理しても効果が薄いので、手をつけられずに残るのだと言います。

平成に入ってからも、一部の地域では区画整理が行なわれていましたが、採算が合わないなどの問題になりました。

「未発展地域の方が効果がありますし、必ずしも地価が上がるとは言い切れなくなっている一方で、建設費は上がり続ける現在、区画整理の時代は終わったと言えます。人口が減少傾向に転じてしまっては、いくら道路を造っても意味がありません。人口は全国的に、地方都市から3大都市へ、都市の周辺部から都心部へという方向になっていくでしょうね」

「名古屋市平和公園」の現在

名古屋の市営墓地は、平和公園の他に、八事霊園、愛宕霊園があり、みどりが丘公園墓地を建設中の他、名古屋市西部の方にも建設する計画があるそうです。

「最近では家族葬が増えていると聞きますし、いずれは『家族葬して埋葬して終わり』みたいな時代が来るのではないでしょうか。後継者不足から墓じまいも増えます。無縁仏や無縁塚は集合させて合祀します。だから今後は、そこまでお墓の需要が増える傾向はないと思います。現在建設中のみどりが丘も、完売まで時間がかかっているようですよ」

「名古屋市平和公園」は、昭和48年に南側の土地の一部が都市計画墓園事業の事業認可を受けました。そのため、既存の緑を活かし、市民が気軽に親しみ、利用できるような散策路などが整備され、植えられた桜の木約2,300本が成長し、市内有数の桜の名所として、花見シーズンには多くの人々で賑わうようになりました。

また、「名古屋市平和公園」に眠る、数々の偉人の墓碑をめぐる「平和公園文化人墓碑めぐり」や、「千種区・名東区家族ジョギング・ウォーキング大会」などのイベントが開催され、名古屋市民だけでなく、近隣の人々の憩いの場となっています。

愛すべき愚直なる名古屋人

阪神淡路大震災後に「復興土地区画整理事業の経験が聞きたい」と、兵庫県が視察に訪れたそうです。

「名古屋市は復興のために、終戦直後から迅速に瓦礫清掃を始めました。家を焼かれた人がバラックなどを建てる前に、一時的に利用できる区域を指定しました。法整備は後から追いかけました。市民が住宅などを建てる前に、いかに素早く測量し、計画を決定するかが、事業成功の鍵です」

公園墓地ブームが訪れる昭和40年代頃には、「名古屋市平和公園」を視察に来る自治体はあったのでしょうか?

「全国から数多くの自治体が訪れました。しかしどの自治体も、『うちは実現困難だな』と言って帰りました」

何が一番難しいのでしょう?

「お墓を動かすことです」

「墓地移転」は、各寺院の住職だけでなく、もちろん檀家さんも反対しました。しかし、高間住職を中心とした「墓地整理委員会」が、粘り強く説得して回ったと言います。

復興土地区画整理事業も、市役所内のほぼ全員が反対していたそうです。ほとんどの人が、「今ある道をちょっと広げればいい」「焼け跡から瓦礫がなくなればいい」くらいにしか思っておらず、田淵氏の計画は、「白い紙にまっすぐな線を引くようなもの」だったと言います。

「田淵さんは、現状維持の感覚で元に戻すのでは発展がないと考えたのでしょう。名古屋の都心部である栄付近は昔から碁盤の目でしたが、それを全市的に広げようという発想です。100m道路の中には道路が何本もありました。もともとの道路は結構斜めだったり、ぐにゃぐにゃ曲がっていましたから、まっすぐにするだけでも結構大変なことでした」

それでも、名古屋はやり切りました。

「名古屋の人の愚直な気質と、昔から耕地整理を理解してきた地域性、そして田淵さんの存在。それが名古屋の成功の理由だと思います。計画を立てたのが田淵さんでなく、もともと名古屋の人だったら、ここまで斬新で大胆なアイディアは出なかったでしょう。名古屋という土地に新しい田淵さんという血が入って、成し得たことなのかと思います」

恒川さんは少しだけ得意げに微笑みました。

計画を立てても、その通りに実現するのは難しいことです。この事実を知って、私も名古屋出身者として、名古屋の街に一層愛着が湧きました。

一度の青信号で渡りきれない100m道路ですが、今後は中央分離帯で赤信号に変わっても、誇らしい気持ちで待てそうです。

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旦木瑞穂(たんぎ みずほ)
1975年愛知県出身。
産経デジタル「New Roses Web」にてグルメ・イベントレポートや、鎌倉新書「月刊 仏事」で葬儀や介護に関する記事などを連載。
各種パンフレット、ガイドブックなどの企画編集のほか、グラフィックデザイン、イラスト制作も行なう。

Twitter:@mimizupon

[旦木瑞穂]